風水開運ガイド

風水の基礎知識をまとめた実用的なブログです。

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鬼門と裏鬼門

鬼門とは方位盤では艮(うしとら)の方位(丑と寅の中間=東北)を指します。 またその正反対の坤(ひつじさる)の方位(未と申の中間=南西)は 裏鬼門といわれています。天門(てんもん)と呼ばれる乾(いぬい=西北)、風門(ふうもん)と呼ばれる巽(たつみ=東南)に対して、坤は人門(じんもん)ともいいます。 陰陽道からの影響で、鬼門は邪悪な鬼が出入りするといって家相では非常に悪い方位といわれ、鬼門方位への引っ越し・建築を嫌う民間信仰があります。 中国の「造営宅経」に 「人宅左に流水あり、これを蒼龍という。 右に長道あり、これを白虎という。 前に汚池あり、これを朱雀という。 後ろに丘陵あり、これを玄武という。 すなわち最高の地とす。」とあるとおり 都は京都も江戸も風水にしたがって作られました。 それぞれ鬼門に京都では最澄が比叡山延暦寺を、 江戸上野では天海が東叡山寛永寺を鬼門守護の霊場として置きました。 さらに江戸城の鬼門には松ではなく柳を植えています。 また日枝神社、神田明神も鬼門除けのために置かれ、裏鬼門には芝増上寺が置いています。

鬼門信仰のルーツ

中国の「山海経」という一種の怪談集にこんな説話があります。 中国の東方数千里に「度朔山」という山があり、 その山の上に枝が三千里にもおよぶ大きな桃の木があったそうです。 そして東北に伸びた巨大な枝の方に門があり、 そこから死者の霊魂がこの山に出入りしていたそうです。 天帝が二人の僧侶にこの門を守らせ、出入りの霊魂をチェックしました。 生前に罪のない者は通過を許し、 他人に害を与えた者は直ちに捕らえられて縄で縛り、 桃の弓で射たうえで虎の餌食としたと伝えられています。 この話しにはもう一つのバリエーションがあります。 門から出入りしたのは死者の霊魂ではなく、 鬼たちであったというものです。 天帝は神荼と鬱塁というニ神に門を見張らせたそうです。 ニ神が休憩している時に鬼が侵入してくるとも言っています。 死者の霊魂を中国では鬼(こえ)と呼んでいましたから 同じ起源から生まれた説話でしょう。 王充の「論衡」には、 そのニ神が悪鬼が来ると捕まえて虎に食わせていたのでその国はいつも平和であったのにちなんで、黄帝は神荼と鬱塁を門神とし、虎の絵を描いて門に貼って悪鬼を防いだ、とあります。この風習は今でも中国に残っています。 香港の街角にそういう玄関が沢山ありますね。 また、「封神演義」にも同様の記述が見られます。 日本の鬼の着衣が虎の褌で頭に角が生えているのは、この説話と丑寅という鬼門の方位から来ています。

易学の鬼門・裏鬼門

東北の鬼門方位は艮の卦で示され、万物万象の終焉を意味します。 終焉はまた開始も表します。変化・停止・相続を表します。 季節では冬の終わりと春の始まり。 小寒から啓蟄(驚蟄)までの二ヶ月間を表します。 ※1/6から2/4を「丑月」、2/4から3/5までを「寅月」と言います。 時刻では午前1時から3時までの「丑の刻」、 3時から5時までの「寅の刻」といいますが不吉な丑三つ時もここに起因します。 一方、裏鬼門の南西は坤の卦で表します。 家庭・母親・日常生活に関することを司っています。 裏鬼門の未申は季節にあてはめると小暑から白露まで。 時刻では午後1時から3時の「未の刻」から午後3時から5時の「申の刻」に当たります。夏と昼の陽気が終わり、陰気に変わる時です。 日本の家相・風水では東北=鬼門が欠けていたり、増改築を行ったりすると、 相続人が欠け、隆盛だった家運が衰退・停止するため、みだりに東北鬼門をいじらないように戒めています。 このことから、京都御所の鬼門に欠けがあるのは藤原氏の陰謀であったとも言われています。 但し、吉方位は各人で変わりますので本命卦を知り、じっくり手を打ってください。

五節句

江戸時代に幕府が定めた式日の一つで桃花節とも言います。 3月3日の上巳(桃の節句)のほかに、 人日(七種の節句・正月7日)、 端午(菖蒲の節句・5月5日)、 七夕(七夕祭・7月7日)、 重陽(菊の節句・9月9日)を 五節句といいました。 節は竹の節のこと。季節の節目に日を決めて祝いをする日を節句といいます。 正しくは節供といったようです。 季節の変わり目、節目に厄を祓い、無病息災を祈るために 神様に季節の食物を供えたことに由来しています。

桃の節句の始まり

中国六朝以後の歳時記には、 陰の気が最も高まる3月の初めの巳の日には水辺に出て禊ぎを行い、 病を避け、寿命を延ばすために髪に柳の一枝を飾り、 草餅を供え、桃の酒を飲んで、災厄を払う行事が出ています。 『宗書』礼志には、魏から後に3月3日にされたことが記録されています。 桃が珍重されるのは、この季節に花咲く陽木である点と 西王母の園に三千年に一度花咲き実るといわれる桃があった、 という伝説と鬼が香気や臭気を嫌うことによるのでしょう。 3月3日に桃の花を杯に浮かべて飲めば、邪気を祓い、齢を延べるという信仰がありました。 これが後に曲水の風流韻事に変わってゆきました。 庭に作った曲がりくねった水溝に、盃を浮かべ下流に行くまでに詩を一つ作りました。 出来ないと罰として盃の酒を飲みます。 (お酒の弱い人は大変です!) 川の流れを蛇に見たてて、水神とし、 蛇の好きなお酒を供えて禊祓する儀式でもあったようです。 日本にも上巳の風俗とともに曲水の風流韻事も伝わりました。 聖武天皇の頃に天子の玉体の祓として行われたのが最初といわれています。 しかし曲水の宴は早く廃れ、奈良時代には3月3日と定められた上巳の祓いは 平安時代には、広く貴族の間で行われるようになりました。 この日の祓いの撫でものとして紙人形を流すことが行われて 後の雛祭りの起源となりました。 『源氏物語』の「須磨」の巻には、光源氏が巳の日に人形を船に乗せて流すことが出てきます。

雛人形の起源

雛人形の起源も中国の南方に伝わる『蟠桃会ばんとうえ』に始まるようです。 その由来は、昔、橋をかける工事が難航した時、川の龍神に幼子を犠牲に供えていました。 その子を選ぶのが天狗だったので、天狗を嫌って桃の枝で天狗を追い払い、 子供の替わりに、子供の魂として心臓の形の菱の実を捧げることにした という話しが伝わっています。 雛人形は『子の形代』でした。 菱餅はその菱の実を表しているといわれています。 祓いの具として川や海に流されていた人形(ひとがた、形代かたしろ)が、 次第にかわいらしいものを愛でる平安貴族の玩具としての「ひいな」の伝統と結合して、 紙の素朴なひとがたから金襴地になり、 土の頭が木彫りや艶やかな塗り物に発達しました。 貴人への贈り物として、目下の者が上等の人形を献上することも行われて 雛送りなどの儀式も生まれました。 川のない地方では辻の祠の前に雛を捨てることもあったようです。 和歌山県の粉河寺、加太の淡島神社の雛流しが有名です。 一方、地方では磯遊び・山遊びの日として 大掛かりに飲食を用意して終日遊ぶこともあったようです。 蛇足ですが蛤の吸い物を出すのは、自分の蓋でなければ絶対に合わないことから、 女性の貞操と貞節を、また蓋が一対であることから将来の夫婦仲が良いことを表しているそうです。 豪華になった雛は川に流されることが次第に無くなりました。 流してしまうのが惜しくなったのでしょうね! 贅沢な人形を比べ合う雛合の風習も見られます。 特に少女のお祭りとなったのは、江戸時代に端午が尚武に通じるとして 男の子の行事として定着するにつれて 少女の行事として行われたからでしょう。 あるいは、「ひいな」の伝統からでしょう。 一対の雛には流し雛の昔から『人形ひとがた』的な祓いの伝統があり、雛壇は一種の神棚で、 その上に雛を飾ってお備えをするのは、一家、ことに幼い子供達の健康が守られ、幸多い未来が得られるようにという信仰が感じられます。 雛祭りはもとは雛遊び。 神々を迎えて災厄を払い、少女たちの健やかな成長を願う祭りなのでしょう。 最近は有職雛を中年の夫婦が自分たちのために買い求めることが多くなっているそうです。 大人が子供に戻るようなよい話ですね。

物忌みと祓い

悪夢を見たり、凶兆とされるできごとが起きた場合、 あるいは占いによって凶事が予知された場合に行われるのが「物忌み」です。 もともとは神官が祭祀にあたって心身の清浄を保つために行う飲食や行動の規制(斎戒)でした。 一定期間、外出を控え、同時に「物忌み」と書きつけた柳の枝の小片や紙片をしのぶ草という植物の茎に結いつけて冠や髪、御簾などに差して凶兆を避ける呪法を意味します。 物忌みの最中はどんなことがあっても大声で話をしない、 絶対よその人に会わないといったことが行われました。 物忌みに使われるや鬼門の方に植えたとされるは魔除けの木として珍重されました。 物忌みより、さらに積極的に凶兆や魔を退けるために行われたのが「祓い」です。 「一ノ祓」、「八ノ祓」、「望月ノ祓」、「晦(みそか)ノ祓」のほかに 実に多くの年中行事が祓いの意味をもって生まれ、受け継がれてきました。 節分、端午など五節句もその一つです。

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